20120708 デマンド→市橋→中平
雑感というか感想というか。
あるワークショップの応募のために写真集なり展覧会なりについて書かなければいけなかったので、この日に行った3つについてこじつけながら多少強引にまとめ。
(実際はデマンドの前に特撮博物館を見ている)
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BLDギャラリー 中平卓馬「サーキュレーション ― 日付、場所、行為」
彼の「視点」を感じた。これを撮りたい、という意図以前の情動がそのまま視点となった結果。
普通はきっと、人は無意識に見たことのある写真を真似るのだ。カレンダーや雑誌で見たような。その一般的写真経験で済まなかった人間が、改めて写真に向き合う。何を撮りたいのか、何をしたいのかを問い、撮る枚数に視点や望みを重ねていって写真は強さを持っていく。それが王道の写真経験というものかもしれない。
追い求める中で中平の情念と撮影行為は一体化し、だからこそただのスナップには成り下がり得ない強さが現れる。
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POLAミュージアム アネックス 市橋織江「-IMPRESSIONNISME-」
対して、情動を元としないのが手法、表現をテーマにしたケースである。
光をとらえる彼女のカラ―は既に確立しており、きれいだが似た散文がいくつもあるだけのようで物足りなかった。今回は特に着眼が表現だったこともあるが、客観とも主観とも取れないものがただ並び、内面や目指す概念に向けて突き進み魂を削るような感じはなかった。
自身のテーマと西洋絵画の印象派をなぞらえ、方向性を再認識したとのようなことを読んだが、ここから更に独自の解釈や表現に向かっていくのならその、次のステージをこそ見てみたいと思う。
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東京都現代美術館 トーマス・デマンド展
写真特有の呪縛から最も解放されているのが、手段がたまたま写真だったというパターンだ。
例えば演劇の記録という目的が、写真を選択した。それだけ。シンプルで、冷静だ。目的達成の為のプロセスがくっきりしていて、その使い方、見せ方まで自覚的である。その情動は別のところにあるか、むしろその冷静さを得るための写真の選択だったりもする。
これらは確かにごく新しい潮流ではあるが、だからといってこれらを一括りに現代写真とか呼ぶのもどうなのか。では元々の写真という言葉に直してみると、これもまた様々なものが並びすぎてしまう。
でもそれはもう、写真の持つ魅力であり宿命なのだろう。写し取りたいという渇望から生まれながら絵画へのジレンマを抱え、立ち位置が定まらず、いまやボタンを押せば誰でも撮れ、玩具やオマケのようになりながらも、とても身近でありつづけている。
だからこそ何らかの表現のために写真を使おうとするときには、なぜ、どうやって使うのかを解っているべきだ。誰でも使う言葉というものをあえて紡ごうとする小説家にきっとその覚悟があるように、あまりにも多様になった写真をいま自分がなぜ選ぶのか、ということを考えずにいては、そこに強い説得力は生まれないように思う。


